全ては無である-アラン・ワッツの無について
目次:
- はじめに
- 何が壮大な感覚を生み出すのか
- 生と死の相対性
- 3.1 生と死の相互依存性
- 3.2 生と死の矛盾
- 3.3 死に向かう生の意味
- 転換の瞬間
- 4.1 上らずにはいられない
- 4.2 下ることに起因する失望
- 生と死の境界線
- 5.1 死への恐怖
- 5.2 不変性への憧れ
- 5.3 死前の無はどこから来るのか
- 空虚に向かう旅
- 6.1 何もないことの力
- 6.2 背景としての空虚の重要性
- 6.3 焼失するものとしての「何か」
- 理解することの難しさ
- 7.1 死の真実に向き合う
- 7.2 空虚の定義的問題
- 7.3 真実と思い込みのゲーム
- 無とは何か
- 8.1 眼の奥にうつった世界
- 8.2 死後の有無
- 8.3 眼付きの意味
- 演劇をする人々
- 9.1 死に対する恐怖
- 9.2 真実を伝える者の意図
- 無になることの美しさ
- 10.1 一時的な喜び
- 10.2 色あせる記憶
- 10.3 懐かしい美
🌌 はじめに
人生の目的や意味について考えたことはありますか?私たちの取り組みや成果、達成を考えると、そのすべてが灰になり、何もかもが消え去ってしまう姿を想像すると、どのように感じるでしょうか?我々が「存在」「現実」「生」と呼んでいる状態があるならば、それに対極する「不在」「幻想」「非現実」「無」あるいは「死」と呼ばれる状態も存在するはずです。そう、生と死は常に対立し、生を生きることの意味づけを生み出しているのです。なぜなら、人生が終わることで初めて生が意味を持つからです。死が存在することによって、生は強烈なものになるのです。さあ、これから詳しく探求していきましょう。
🌌 何が壮大な感覚を生み出すのか
人類の詩には、このテーマに関するものが数多く存在します。詩人たちは、日々移り変わる世界や絶え間ない変化の美しさについて、また過ぎ去ったものへの郷愁的美しさについて詠い上げてきました。宴会後の空っぽの部屋、離れていくゲストたち、ひっくり返ったグラスや汚れたナプキン、くずれたテーブル上の笑い声などが、私たちの心に残ります。しかし、そのすべては終わりの果て、痕跡は消え去ります。それが終わりなのです。実は、この無の状態が最も真の状態であり、それが全ての起源になっているのです。
🌌 生と死の相対性
生と死は互いに依存し合っています。生があるからこそ、死を理解することができます。光があるからこそ、闇が存在しているのと同じです。ですから、人生を生きる喜びやワクワク感は、すべて終わりが訪れることによって生まれるのです。生と死の境界線に立たされたとき、上に進むことで何かを得ることもありますが、下に進むことでがっかり感や失われた感覚、陰鬱さが生まれます。死は非常に魅力的に思えますが、無は非常に不変で恒久的なものです。しかし、無が何であるかと考えると、始まる前の無についても考えなければなりません。
🌌 転換の瞬間
生と死の境界に立つとき、私たちは瞬間の移り変わりを感じます。少し上の方へ進んだ時には何かを得ることができますが、少し下の方へ進んだ時には失望感や暗闇、喪失感を感じるでしょう。死への旅はその先にあるかのように思えますが、どうも全てを手に入れることは困難なようです。死とは何もない状態であり、非常に不変で永遠的なものです。しかし、そうだとすると、始まる前の無はどうなるのでしょうか?私たちが無に無力さを帰することによって、完全な論理的な落伍を生み出していることに気づかないのです。無には何も必要ありません。なぜなら、無から何かがあることを知ることがなければ、何かとは何であるかもわかりません。背景の空間がなければ、何も見ることができません。
🌌 生と死の境界線
もし自分が球状の眼を持っていたとしたら、周囲を360度見渡すことができるでしょう。しかし、その真ん中には何があるのでしょうか?背後にあるもの全てを含んだとしても、私たちはそれらの中に真ん中に何かがあることに気づくでしょう。まるで今の私たちが感じているような感覚です。私について言えば、死後はただ何もない状態だと言われても、一体それはどんな意識の状態なのでしょうか?これは何かを言っている人がいる状態であり、何かを主張しようとしているのです。そのような人々は世界を支配したいと考えている人々の一部であり、死に関して不安を覚えています。死は現実の存在なのです。だからこそ、夢や幻想、死後の世界、天国、神秘的な経験や永遠などに思いを馳せる人たちは、事実に立ち向かっていないと言えるのです。
🌌 無に向かう旅
なぜなら、無が基本的な現実であると主張する人たちは、ありとあらゆるものが無力な状態であることに気づいていないからです。私たちは、無から何かが生まれるために何も必要ありません。私たちが鏡のように磨かれていなければならないと考えるのは、鏡を汚さないように常に磨かれなければならないという思い込みからくるのです。しかし、詩の会で優勝した人物は、「鏡など存在しない。心の本質は本来的に空虚なのだから、埃がたまる場所などどこにもない」と言いました。ですから、無とは何もない状態であり、何もない状態に埃がたまる場所がどこか存在するはずがありません。これが無であり、それがすべての元になっているのです。では、他になり得るものは何があるでしょうか?それは何ものないことです。そして、あなたがそれなのです。
🌌 理解することの難しさ
死への恐怖や混乱、心配が何ものでもないということに気づくと、いかに愚かで幻想的な思考であるかが分かります。何もかも無意味であるという考えにとらわれることはありません。何もかもがただの夢であると考えることは、理解の問題なのです。しかし、どのように無とは何であるかを見つめ直そうとしても、眼の奥には自分自身の存在がうつるばかりです。だからこそ、元気を出しましょう。これが仏教の哲学が示す「私たちは根本的に何もない」という意味です。私たちが「空」「無」「虚無」と言っているのは、その背後にあるすべての存在を意味しているのです。何もかもが空虚であり、あなたこそがそれなのです。
🌌 生と死の境界線
私たちに与えられている時間やその本質とは一体何なのでしょうか?詩人たちは何度もこのテーマを詠ってきました。地球の希望は人々の心に生まれますが、その希望も一瞬で灰となるか、砂漠のような顔に雪のように舞い降りることで消えます。詩によって、この無常さが強調されます。そして、それには懐かしさが宿っているのです。
宴会のホールは騒ぎが収まり、ゲストたちはそれぞれの道へと去っていきます。テーブルにはひっくり返ったグラスやくしゃくしゃのナプキン、パンくず、汚れたナイフやフォークが残されています。しかしその笑い声は心に響くだけです。やがて、それも消え去り、痕跡は何も残りません。これが終わりなのです。
あなたは理解できましたか?この世界で最も真の状態が無であること、そしてそれがすべての結果であることを。物事がなくなることによって、すべてが終わりになることを。物事の現実的な存在が何でもないことによって、すべてが開始されることを。物事が現実ではないことによって、すべてが理解できることを。
🌌 演劇をする人々
死への恐怖に取り憑かれ、現実を直視できない人々がいます。彼らはあなたたちが思っている型破りな人たちの一部です。それが恐ろしいと考えています。死は現実なのです。だからこそ、生と死について夢想し、天国や神々、神秘的な経験や永遠などを夢見る人たちは、事実に直面していないのです。死とは現実の存在であり、それが物事の結果をもたらすのです。
🌌 無になることの美しさ
絶え間なく流れる世界や一瞬の変化の美しさについて詩を詠んできた詩人たちは、すべて一つのことを歌っていたのです。それはすべてが終わりのなす途中点であるということです。そしてそれが最も真の状態であるとわかったとき、私たちは自分自身が無であることに気づくのです。この無の状態は最も信じられないものですが、それがすべてなのです。そして、六祖は空虚と無関心の違いを対比させました。無関心はただの無気味な空虚ではありません。これが「無」が指すものです。
もし、無が単なる空白としてとらえ、黒さに囚われていると思っているのならば、その真の意味を理解していないのです。これが全てです。背後にある全宇宙、太陽、月、星、山や川、優れた人間や悪い人間、動物や昆虫などすべてが、空虚の中に含まれているのです。そして、それは空虚から派生し、あなたこそがそれなのです。他に何かあるのでしょうか?何もありません。あなたこそがそれなのです。
終わりです