メタリカ「フェイド・トゥ・ブラック」の物語
目次
- メタリカの「Fade to Black(フェイド・トゥ・ブラック)」の紹介
- フェイド・トゥ・ブラックの誕生秘話
- フェイド・トゥ・ブラックの歌詞の意味と反響
- フェイド・トゥ・ブラックが引き起こした音楽検閲の波及効果
- ガンズ・アンド・ローゼズとの共同ツアー中のアクシデント
- フェイド・トゥ・ブラックの再評価と困惑
- メタリカのコンサートでの人気曲投票
- フェイド・トゥ・ブラックがベース奏者ジェイソン・ニューステッドの最後のパフォーマンスとなった瞬間
- フェイド・トゥ・ブラックの影響と評価
- まとめ
メタリカの「Fade to Black(フェイド・トゥ・ブラック)」の紹介
メタリカの2ndアルバム「Ride the Lightning(ライド・ザ・ライトニング)」に収録されている「Fade to Black(フェイド・トゥ・ブラック)」は、バンドの代表曲の一つです。この楽曲は、バラード調のメロディと重厚なギターソロで知られています。本記事では、この名曲の誕生秘話や歌詞の意味、反響などについて詳しくお伝えします。
フェイド・トゥ・ブラックの誕生秘話
「フェイド・トゥ・ブラック」の誕生は、1984年1月のある事件がきっかけでした。当時、メタリカはツアー中でボストンのロッククラブ「The Channel」でのライブを控えていました。しかし、ライブの前日にバンドのマネージャーが機材を積んだトラックごと盗まれてしまいました。この盗難によってバンドは約40,000ドル相当の機材を失い、特にジェームズ・ヘットフィールドのお気に入りのアンプが盗まれたことが大きな打撃となりました。バンドは欧州ツアーに向けて準備を進めていましたが、ラベルメイトのアンスラックスが自分たちの機材を貸すという優しい行動をとり、ツアーを予定通り行うことができました。
この盗難事件後、バンドは友人の家であるメタル・ジョーの所に滞在していました。そこで、ジェームズ・ヘットフィールドは「フェイド・トゥ・ブラック」の歌詞を書きました。当時、彼は非常に落ち込んでおり、機材の盗難やマネージャーの家を追い出されるなどの出来事により、自殺を考えるような状況に陥っていました。彼はギター雑誌のインタビューで、「この曲は自殺ソングであり、この曲のせいで子供たちが自殺していると非難されたが、実際には数百通の手紙が届き、彼らがこの曲に共感し、元気を取り戻したという声もあった。」と語っています。
フェイド・トゥ・ブラックの歌詞の意味と反響
「フェイド・トゥ・ブラック」の歌詞は、深い悲しみと絶望を感じることができます。曲の冒頭の歌詞には、「私の意志は失われ、手を差し伸べるものはもうない。私にはこれ以上与えるものは何もない。終わりが来て自由にしてくれ。死は私を暖かく迎えるだろう、たださよならと言うだけだ。」という切実な心情が込められています。これらの歌詞は多くの聴衆に共感を呼び、彼らの人生を救ったという感謝の手紙がバンドに届くほどの反響を呼びました。
一方で、メタル音楽の中でも特に過激な部類の楽曲として批判を浴びることもありました。1980年代には音楽検閲が激化し、元ミュージシャンであり牧師となったジェフ・リングを含む「PMRC」(Parents Music Resource Center)が、メタルの楽曲特に「フェイド・トゥ・ブラック」を悪影響を与えるものとして非難しました。しかし、バンドは数多くの手紙で応援され、多くのファンから自殺を回避できたとの感謝の言葉をもらっていました。
フェイド・トゥ・ブラックが引き起こした音楽検閲の波及効果
メタリカの「フェイド・トゥ・ブラック」を含む音楽の検閲は、1980年代にかなりの勢いで行われました。特にメタルやハードロックの楽曲は、その暗さや過激なテーマからターゲットとなりました。彼らは自殺を助長するとして告発され、損害賠償を求められることもありました。しかし、メタリカをはじめとする多くのバンドは、ファンからの支持や手紙でその非難をはねのけました。結果的に、「フェイド・トゥ・ブラック」は多くの人々にとって救いの曲となり、彼らの人生に希望と勇気を与える存在となりました。
続く